待ち望みましょう(マタイ13:24∼30、36∼43)-2020. 7. 19. 聖霊降臨後第7主日 > 説教

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待ち望みましょう(マタイ13:24∼30、36∼43)-2020. 7. 19. 聖霊降臨後第7主日

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作成者 최고관리자 作成日20-07-22 12:56照会150회 댓글0건

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私が子供たちとよくしている遊びの中に「戦いごっこ」というものがあります。
この遊びが始まると、子供たちは、正義の勇士となり、父は悪人になります。子供たちはウルトラマンにもなり、スーパーマンにもなることができますが、父はいつも悪人になって、正義の裁きを受けなければなりません。そして正義が勝利して悪人は悲惨な最期を迎えることで、この遊びは終わります。この遊びでは、絶対に悪人は勝つことができません。悪人が裁かれるまで、この遊びは終わらないからです。最後に裁かれるのが悪人の必然なので、私は、毎回の戦いごっこで裁かれています。正義が勝利して、悪人が審判されること!これは子供だけでなく、私たちみんなが望んでいることでしょう。聖書でも同じです。箴言と詩篇では、義人と悪人の最後が違うということを語っています。義人は神さまに認められて天国に導かれますが、悪人は自分の罪のゆえに、滅びるのです。私たちによく知られている詩編1篇の言葉も、このようなことを語っています。
「まことに、主は、正しい者の道を知っておられる。しかし、悪者の道は滅び失せる(4節:新改訳)」

しかし、私たちが生きている現実の世界では、このような義人と悪人の最後がいつも見られるわけではありません。むしろ義人が滅び、悪人が成功する例を見ることもあります。だから私たちは、もっと義人の勝利と悪人の敗北を望んでいるのだと思います。そして、このようなことを、私たちはやり遂げることができないので、神さまの助けを望んでいます。神さまが正しい者を輝かしてくださいますように、悪人を裁いてくださるように望んでいます。しかし、私たちの願いにもかかわらず、現実での悪人の審判はなさそうで、ある場合でも足りないようです。まるで神さまは悪人の裁きに積極的ではないようです。悪が勢力を得ることを見て、神さまの正義と審判について疑う人もいるでしょう。イエスさまの弟子たちの中にも、また、初代教会の共同体の中にも、このようなことについて悩み、疑う人もいたようです。悪が勢力を得ているのに、神さまは、なぜ沈黙しておられるのだろうか。このような質問にイエスさまは、今日の福音書を通して答えてくださいます。

今日の福音書は、先週の福音書とつながる内容です。
先週の福音書での重点は、神さまの言葉とその言葉を受け入れて悟る人に対する話です。今週の福音書での重点は、神さまの言葉を悟った人が敵によって害を受けることと、それに対する神さまのご計画です。敵は麦の種が蒔かれた地に、誰も知らないうちに来て、毒麦の種を蒔いて行きます。敵が毒麦の種を蒔いたのは、麦が実を結ぶことを妨げようとする意図でしょう。時間が過ぎ、芽が出て、実ってみると、人々は毒麦が一緒に入っているということが分りました。そして主人に行ってこのように言います。
「僕たちが主人のところに来て言った。『だんなさま、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう(27節)。』」
すると主人は、「敵の仕業だ」と答えます。ここに僕たちは、この毒麦を抜き集めておきましょうかと尋ねます。しかし、主人は、刈り入れまで、そのままにおきなさいと言います。毒麦を抜きながら、麦まで一緒に抜くかもしれないからです。そして、借り入れる時、毒麦は集めて焼き、麦は集めて倉に入れると言います。

主人は、なぜ自分の畑に毒麦が生じたか、自分の畑をこれからどのように管理しなければならないのか、よく知っています。敵、すなわち、悪魔は、常に主人の畑、つまりこの世に悪を蒔くのです。憎しみと嫉妬、利己的な心と差別的な考えなど、いろいろな悪の種をこの世に蒔くのです。このようなことを通して、世の中を乱して、みんなに力を求めさせ、お互いを征服させようとするのです。そして最後には、何が正義なのか分からなくするのです。何が神さまが願われることなのか、どこが私たちが行くべき道なのか、分からなくするのです。ところが、それにもかかわらず、主人は、毒麦を抜きません。すぐに毒麦を抜くと、得られる所得は増えるはずです。しかし、主人は、毒麦を抜きません。万が一に、毒麦と一緒に麦が抜かれる可能性があるからです。大のために小を犠牲にさせないということが主人の考えです。だから主人は、得られる所得が少なくなるとしても、毒麦を抜かないと言ったのです。

ある人は、このような主人の言葉を間違えて引用して、神さまの裁きがあるのだから、私たちは、静かにしていようと言います。また、ある人は麦と毒麦は、神様だけが区別することができますので、じっといようと言うこともあります。しかし、このような解釈は正しくありません。念のために、毒麦を抜かないことです。神さまの審判だけ待ち、正義と悪について全然分からないので、毒麦を抜かないわけではありません。キリスト教の精神は正しい道を行くことにあります。しかし、その正しい道を行くために、他の人の犠牲を求めるのではありません。私たちはいつもルカによる福音書15章に書かれている「見失った羊のたとえ」を覚えなければなりません。神さまの望んでおられるのは、正義を行うことだけではありません。罪人一人の悔い改め、神さまはこれをより大きく喜ばれます。

今、私たちが生きている世の中には、多くのことが絡んでいます。
何が正しいものであり、何が悪いものであるのかを判断することが難しくて、何がどのように絡んでいるかも知ることは難しいです。何日か前、韓国では大きな事件が起こりました。次期大統領候補者として嘱望されていたソウル市長が自殺した事件です。そして、その事件の後、ソウル市長のセクハラの告発がありました。亡くなったソウル市長は民主化運動をした人でした。韓国の民主化を導いた偉い人でした。多くの業も成し遂げました。しかし、彼は欲望に勝たず、セクハラの罪に疑われ、告発されました。そして自殺で自分の人生を終えました。彼が成し遂げたことは素晴らしいことでしたが、だからといって、彼の罪が消え去るわけではありません。同時に、彼が罪を犯したとしても、彼が成し遂げたことが最低になることでもありません。女性の人権団体では、彼は罪を犯した不正な人だと言います。逆に、民主化運動を経験した人々は、彼は罪を犯しましたが、不正な人ではなかったと言います。

この世は複雑で、多くのものが絡んでいます。
子供たちとの遊びのように、正義と不義が明確に区別されていません。このすべての理由は、この世の中には毒麦が蒔かれたからだと思います。主人がなぜ毒麦を抜かなかったのかが分かるようです。しかし、このような世の中にも、全く希望がないわけではありません。毒麦が伸びていますが、神さまが蒔かれた麦、つまり、クリスチャンたちも世の中で生きているからです。いつかは麦が実を結ぶ日が来るでしょう。そして実を結ぶ日が来ると、主人は必ず刈り入れをするでしょう。麦と毒麦は区別され、麦は倉に入れ、毒麦は集められて焼かれるのです。

今の世では、神さまの審判がないようで、正義が実現されないように見えるかもしれません。しかしその日、最後の日が来ると、すべてのことは、明らかに示されるのです。何が正義なのか、何が不義なのか分かるようになるのです。その日が来ることを、私たちは一緒に待ち望みましょう。神さまの正義が実現されるその日は、必ず私たちに来るのです。そして、私たちが待ち望むその日に、今日の福音書43節の御言葉のように、「正しい人々はその父の国で太陽のように輝くのです。私も皆さんも、その日に太陽のように輝きますように。忍耐して待ち望んでいる人々に神さまの恵みがありますように、主の御名によって祈ります。アーメン

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