涙と共に種を蒔く人は(マタイ14:13~21)ー2020. 8. 2. 聖霊降臨後第9主日 > 説教

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涙と共に種を蒔く人は(マタイ14:13~21)ー2020. 8. 2. 聖霊降臨後第9主日

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作成者 최고관리자 作成日20-08-08 19:21照会314회 댓글0건

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今日の福音書には、イエスさまが行われた奇跡が書かれています。
五つのパンと2匹の魚で5000人を食べさせた奇跡です。本当に驚くべき奇跡だから、今日の福音書は、この奇跡に関することだということもできます。そしてこの奇跡を通してパンを分けたので、この奇跡は、神の国の晩餐、聖餐として解釈することもできます。数年前に、私も今日の福音書を持って、神の国の晩餐という観点で説教をしたことがあります。しかし、今日は少し違う視点でこの本文を見ようと思います。この3週間の福音書がこの世での神の国について語っているので、今日の福音書も、その延長線で見ることもできると思います。今日の福音書は、このように始まります。13節の言葉です。「イエスはこれを聞くと、舟に乗ってそこを去り、ひとり人里離れた所に退かれた。しかし、群衆はそのことを聞き、方々の町から步いて後を追った。」

「イエスはこれを聞くと...」、イエスさまが聞いたことは何でしょうか。
何を聞くと、イエスさまは舟に乗って、そこから離れた所に退かれたのでしょうか。今日の福音書の前には、イエスさまは何を聞きたかが書かれています。それは悲報でした。イエスさまのいとこであり、イエスさまの道を備えた人、洗礼者ヨハネが殺されたということでした。そして、洗礼者ヨハネの弟子たちは、彼の死をイエスさまに報告しました。12節の言葉です。
「ヨハネの弟子たちが来て、遺体を引き取って葬り、イエスのところに行って報告した。」

イエスさまはこの報告を聞かれて、ひとり人里離れた所に退かれました。
多くの考えや衝撃、悩みなどを持っておられたと思います。どんなにヘロデの勢力が大きいといっても、人々に尊敬されていた洗礼者ヨハネが首を切られるとは、誰も予想できなかったのでしょう。私の考えでは、ヘロデは、この事件を通して自分の政治的な力の立場を固めたと思います。ヘロデは洗礼者ヨハネを捕えて縛り、牢に入れましたが、しばらくの間、何も行われませんでした。人々の顔色を見ていたのです。しかし、ヘロディアの娘のことをきっかけにして、彼は決断を下しました。自分を非難する者は誰も許さないということが、洗礼者ヨハネの首切り事件だったと思います。そして、この力の論理は、イスラエルの民に向かっていくのです。

イエス様もこの事件が与える意味を知っておられたでしょう。
もちろん、洗礼者ヨハネの死も心痛むことですが、力のない一般的な民が経験することを予想なさったのです。そして、ご自分とご自分の働きも険しくなることを予想なさったのです。それで、イエスさまは、洗礼者ヨハネの死の知らせを聞いて、ひとり人里離れた所に行かれたのだと思います。祈られる時間も必要だったし、ご自分の考えをまとめる時間も必要だったでしょう。ところが、イエスさまが人里離れた所に退かれたという知らせを聞いた群衆は、イエスさまの後を追いました。イエスさまは、お一人だけの時間が欲しかったし、群衆はイエスさまが必要でした。通常、このような状況では、一般の人々は、自分のための時間を持つでしょう。しかし、イエスさまは、群衆のためにご自分の時間を与えてくださいました。彼らを受け入れ、その中の病人をいやされました。

今日の説教題である「涙と共に種を蒔く人は」という言葉は、詩篇126篇5節に書かれている言葉です。詩篇126篇5節にはこう書かれています。「涙と共に種を蒔く人は喜びの歌と共に刈り入れる。」私は今日の福音書でのイエスさまの姿を見て、「涙と共に種を蒔く人」が思い浮かびました。詩篇126篇は、ユダヤが敗れた後、バビロン捕囚期に書かれた詩です。捕囚としての生活は大変で、絶望的だったでしょう。国は敗れ、多くの人々は捕囚となりました。涙を流すしかない状況です。だから詩人は、「涙と共に」という表現を使います。しかし詩人は、これですべてのことが終わるわけではないことを語ります。神の助けがあると言います。だから、涙と共に種を蒔くと言います。そして、そのような人には喜びの歌と共に刈り入れがあると言います。イエスさまの状況もこれと同じだったと思います。ご自分の道を備えてくれた洗礼者ヨハネの死は、これからのイエスさまご自分のお働きが険しくなることを予告してくれることでした。民たちもヘロデの力の論理の前に困難を受けるでしょう。だからイエスさまは、一人だけの時間を持つこともあきらめられたのだと思います。ご自分のところに来た大勢の群衆を見て憐れんで思い、その中の病人をいやされました。私はこの箇所を読んで、イエスさまも涙と共に種を蒔かれたと感じました。

夕暮れになりました。弟子たちはイエスさまに群衆を解散させるようにお願いしました。
人里と離れており、夕飯も食べなければならなかったからです。するとイエスさまは、「行かせることはない。あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい(16節)」と言われます。群衆の数は本文21節に書かれています。「女と子供を別にして、5000人ほどであった。」
本当に大勢の人々がイエスさまのところに来たのです。そして、イエスさまは彼らに食べもの、すなわち、彼らの必要を満たしなさいと言われます。弟子たちが慌てたことは確かです。今日の福音書には書かれていませんが、ヨハネ6章7節で弟子であるフィリポは、このように言います。
「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう。」
1デナリオンが日雇い労働者の一日の分だったので、200デナリオンを現在のお金の価値に換算すると、約150万円から200万円程度となります。フィリポのこの言葉は、二百デナリが必要だということではなく、このように多くの人々を、私たちが食べさせることができないということです。しかし、イエスさまは彼らに食べ物を与えることを願われました。すると弟子たちは、自分が持っているものは、パン五つと魚二匹だけだということを言います。まだ弟子たちは、集まった人々に食べ物を提供することができないという立場なのです。イエスさまは、このような弟子たちの前で五つのパンと二匹の魚を持って、賛美の祈りを唱えられます。祈りの後、パンを裂いて弟子たちに渡し、弟子たちはそのパンを群衆に与えました。そして、私たちがよく知っているように、集まった群衆は、みんな満腹になりました。

この御言葉の意味は、単純に記録された数字にあるのではないと思います。
パン五つ、魚二匹、五千人、十二のかご、これが今日の福音書が語っていることではありません。今日の福音書は「涙と共に種を蒔く人」の言葉です。先が見えない状況ですが…、単純な考えでは計算できない状況ですが…、考えると泣きたくなる状況ですが…、信仰を持って種を蒔く人の話だと思います。詩篇126編の詩人のように、イエスさまのように、神さまが行われることを期待して、将来のために種を蒔く人の話、その話が今日の福音書なのです。そして今日の福音書は、この言葉を聞いているすべての人々が、種を蒔く人になることを願っているのです。迫害の中にある初代教会の信徒たちに、戦争や飢饉などによって苦しみを受けている人々に、そして私たちに、この福音書は、種を蒔きなさいと語っています。

現在のことを考えると、本当に真っ暗です。
私たちは自分の教会のことだけで精いっぱいなのに、隣人を助けることができるのか、また、誰をどのように助けるのか、まったく分かりません。私たちが出している少しばかりのお金が、果たして役に立つかも気になります。しかしイエスさまは、私たちの小さな助けでも必要だと言われます。パン五つ、魚二匹くらいの小さなものでも、イエスさまが手に取られると、必要なところに豊かに使われるのです。だから涙と共に種を蒔くことは、非常に大事なことです。詩篇126篇は、涙と共に種を蒔く人の収穫について語っています。喜びの歌と共に刈り入れることを語っています。涙を流していますが、種を蒔く人には、必ず収穫があるのです。
ガラテヤ6:9「たゆまず善を行いましょう。飽きずに励んでいれば、時が来て、実を刈り取ることになります。」アーメン

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