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教会の共同体のリレーションシップ(マタイ18:15-20)-2020. 9. 6. 聖霊降臨後第14主日

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作成者 최고관리자 作成日20-09-12 17:19照会155회 댓글0건

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今日の福音書は、「兄弟があなたに対して罪を犯したなら」という言葉で始まります。
ここでの兄弟は、血縁の兄弟を指す言葉ではありません。同じ民族や貧しい隣人を指すことでもありません。教会の中で言葉と聖餐を通して、イエスさまの体と血を分かち合った人々を指す言葉です。すなわち、今日の福音書は、過去初代教会の共同体の中で起こった罪に関することを扱っているのです。それだけでなく、今日の福音書が入っているマタイ18章全体は、教会共同体に関連する言葉です。その中で、今日の福音書は、「兄弟が自分に罪を犯したら、どうするか」について語っています。今、私たち教会の状況では、このようなことが起こる可能性は少ないです。お互いに絡んでいることが多くないので、各自の意見の違いによって、議論はあるかもしれませんが、罪を犯すところまでは行かないでしょう。しかし、今日の福音書を通して私たちは、イエスさまの知恵の言葉を得ることができるのです。そして教会共同体に与えられた祝福と力を悟って、自信を持って祈ることができると思います。
15節の言葉からみましょう。「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。」

この本文の核心は罪を犯した兄弟についてのことです。
自分と意見が合わない人に対することではないので、この箇所は気をつけて使われなければなりません。イエスさまは、自分に罪を犯した人のところに行って、二人だけの場所で忠告しなさいと言われます。このような理由は、その人の過ちを公開的に知らせないためです。その人を他人の視線から守るのです。これは教会の共同体の中で重要なことです。自分の過ちが万人の前で明らかになった場合は、教会を離れるだけでなく、ある場合は信仰を捨てることもあります。そのため、過ちがあったとしても、他人の視線からその人を守らなければならないのです。しかし、その過ちをそのままやり過ごすことはできません。愛という名の下に過ちを見過ごすのは、本当の愛ではないからです。

子供を育てた時を思い出してください。
間違ったことがあれば、そのまま見逃していません。忠告して、叱って、十分に理解させます。なぜなら本当の愛を持って、対しているからです。だから、同じように勇気を出して、兄弟の過ちを指摘することも必要です。ただ見逃すことだけが、能ではありません。罪を犯した人と二人だけのところで忠告しなさいということは、その人を守ってくれる意図もありますが、その人の過ちを悔い改めさせる意図もあります。見逃すことが愛だとはみえません。愛を持って相手が犯した罪について忠告すること。そして相手と和解をして、再び、教会の共同体に受け入れること。これが罪を犯した人を訪ねて行く理由です。

ところが、罪を犯した人が忠告を聞かずに認めない可能性もあります。
そんなときにどうすればいいでしょうか。
16節の御言葉です。「聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緖に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである。」
一人か二人の証人を連れて行くというのは、律法と関連があります。律法でも、この証人について言っています。彼らと一緒に行く理由は、すべての状況を客観的に見るためです。本当に相手が間違ったのか、それとも一方の主張がしすぎだったのではないのかを確認するためです。勝つために、又は、自分に犯した罪を確定するために、自分の側の人を連れて行くのではありません。もちろんこの時も同じように、目的は和解です。許して受け入れるために、他の人と一緒に行くのです。決して兄弟の罪を表沙汰にするためではありません。このことを常に注意しなければなりません。

しかし、相変わらず罪を犯した兄弟が忠告を聞き入れなければ、教会にその事実を報告して、彼を異邦人か徴税人と同様に見なしなさいとイエス様は言われます。日本語の聖書には、「聞き入れなければ」と書かれていますが、原文で書かれた言葉は、「παρακουση(パラクセ)」という言葉です。この「パラクセ」という言葉は、「無視する」という意味も持っているので、「相手が無視すると」と解釈することもできます。その場合、すなわち、相手が最後まで無視すると、このすべてを教会に知らせなければなりません。すると加害者は、異邦人や徴税人のように扱われるのです。

ユダヤ社会の観点から見ると、異邦人か徴税人と同じく見なすということは、実質的に断絶と追放を意味します。皆さんもよくご存知だと思いますが、ユダヤ社会は血縁で縛られている社会です。これは神さまに選ばれた民族という選民思想とつながっており、自分たちだけのために、神さまは救いを与えてくださるということが、彼らの主張です。ところが、イエスさまはこのような思想が残っている弟子たちと初代教会の信徒たちに、教会の言うことも無視する者たちは、異邦人と徴税人と同様に見なしなさいと言われます。それでは、この言葉の意味は、そんな者たちなら、教会から断絶され、追放されても良いという話でしょうか。当時の状況の中で考えてみるなら、ある程度は、一理ある言葉だと思います。イエスさまの弟子たち、特に、初代教会は、簡単に揺らぐことができる環境に置かれていたことが事実です。当時のキリスト教とは、小さな宗教であり、人々にはユダヤ教の分派だと思われました。そのような宗教団体に犯罪が起こっていたら、キリスト教は、人に良くない印象を与えるしかなかったでしょう。

また、初代教会は関係中心の共同体であったため、犯罪が起こると、一人二人だけの被害で終わらないこともありました。今は、私たちが礼拝の形を備え、讃美歌を歌って、御言葉を読みながら、説教を聞いていますが、当時の教会は、このようなものが備わっていませんでした。賛美歌もなく、説教もありませんでした。ただイエスさまのお話を覚えている人々が集まって、一緒にパンとぶどう酒を飲みながら、イエスさまの話を分かち合ったのが、当時のキリスト教の集まりでした。徹底的に関係中心の集まりだったので、犯罪とは共同体を崩壊させることに十分なものでした。それで、イエスさまはそのように厳しく言われたのだと思います。

しかし、私たちが必ず覚えなければならないことがあります。
それは、イエス様が異邦人と徴税人をどのように対したかというのです。イエス様はいつも徴税人や罪人、異邦人たちと共におられました。他の人たちから後ろ指を差されても構いませんでした。異邦人や徴税人は相変わらずイエス様の関心の対象であり、愛の対象でした。そして、いつでも信仰の共同体の中で入ってくることができる人々でした。だから、異邦人か徴税人と同様に見なしなさいという言葉は、必ず断絶して追放するということだけで解釈することはできないと思います。罪を犯したら許しを求め、謝罪する機会を与えて、できるだけ和解しなさい。もしそのようにならなかったとしても、いつでも罪を犯した人が戻れるようにしなさい。これがイエスさまが私たちに教えてくださる知恵の言葉だと思います。

しかし、このことは簡単なことではありません。
それでイエス様は、私たちがこのようなことの前で悩まず、祈ることができようにこう言われます。
今日の福音書19〜20節の御言葉です。「また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」
どんな教会共同体の悩みの前でも、私たちが恐れないのは、イエスさまが共にいてくださるとおっしゃったからです。すべての瞬間にイエスさまが信仰の人と教会と共におられます。そして、教会共同体が善を行うことができるように、イエスさまは教会のことを助けてくださるのです。私たちが信仰の中で一つになり、互いに愛することができるようにしてくださるのです。私たちがどんな問題の前でも、自信をもって祈ることができるように、導いてくださるのです。神さまが私たちの交わりを祝福してくださいますように。お互いのために、そして私たち教会のために互いに理解して愛する皆様になりますように主の御名によって祈ります。アーメン。

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