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説教

(動画)本質と非本質(マタイ22:34-46)-2020. 10. 25. 宗教改革主日

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作成者 최고관리자 作成日20-10-24 17:24照会112회 댓글0건

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https://youtu.be/wIay0l4Vj3c
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場所:飯能ルーテル教会
司式:笠原光見牧師
説教:李正雨牧師

今日は宗教改革主日です。
ルターの宗教改革は、1517年10月31日、ルターがヴィッテンベルク城教会の門の扉に95か条の論題の文書を貼りだしたことが発端になりました。それで、ルターの末裔である私たちは、毎年、10月の最後の主日に宗教改革を記念して礼拝をささげています。ルターは、95か条の論題で、免罪と関連している悔い改めと赦免のことを指摘します。簡単に言えば、悔い改めの姿勢は免罪符を買うことではないということと、果たして、免罪符で赦免することができるかということです。ルターは教皇の赦免は、教会から受けられた罰でのみ有効であると言います。つまり、免罪符を買ったとしても(当時に力を持っていた)教会の罰だけが許されることができるということです。罪について完全な許しは、神さまだけがなさるというのがルターの主張でした。しかし、当時の教権者たちは、これを受け入れませんでした。教権への挑戦だと思い、ルターを圧迫しました。これでルターは、討論会を通して自分の立場を知らせました。そして、95か条の論題の意図と神学的な説明のために、1518年4月、教皇に「免罪符の効力に関する論題解説(Resolutiones disputationum de indulgentiarum virtute)」という文書を作成して送ります。しかし、教皇庁は、教皇の権威に挑戦したということで、ルターの主張を受け入れませんでした。結局、ルターは、3年後のヴォルムス帝国会議によって破門されます。そして、本格的な宗教改革が起こりました。

私は、今日の福音書を通して、ルターの改革は、本質と本質ではないものとの戦いではなかったかと思いました。ルターは宗教改革を通して本質を主張しました。ルターにとって神の赦しは本質であり、免罪符は本質ではないものでした。聖書が本質であり、教会と教皇庁の権威は、本質ではないものでした。ルターは教会が本質に戻ることを望んだのだと思います。それで95か条の論題を貼りだしたのです。しかし、非本質的なもので満ちた当時の教会は、ルターを破門しました。非本質的なものに夢中になって、本質的なことを拒否したのです。

今日の福音書が含まれているマタイによる福音書22章では、3回の議論が書かれています。
一番目は、皇帝に税金を納めることについて、二番目は、サドカイ派の虚しい復活の主張について、三番目は、今日の福音書である最も重要な掟についてです。この3回の議論は大事なこととして見えるかもしれませんが、実は、無駄話に過ぎないものでした。イエスさまの言葉じりをとらえるための議論だったからです。さらに、イエスさまはマタイによる福音書22章の書き出しに、婚宴のたとえを語られました。人間にとって最も重要な救いについて語られたのです。しかし、これを聞いたファリサイ派の人々は、イエスさまの言葉じりをとらえて、どのように罠にかけようかと相談します。イエスさまは本質をおっしゃいましたが、当時の権力者たちは、本質について関心さえもなかったのです。

今日の福音書でファリサイ派の人々は、イエスさまに最も重要な掟が何なのかを尋ねます。
当時、何が最も重要な掟なのかについての議論はあったそうです。それで、ファリサイ派の人々を中心にして議論がありましたが、その中のヒレルという有名な学者は、モーセの613項の律法を24項に縮小させたそうです。しかし、人々は、最も重要な掟を選ぶことに関心が深く、最も重要な掟が何かについて多くの議論をしました。そして、当時にはまだ決まっていなかった最も重要な掟を選ぶ問題を持ってイエスさまのところに来て、イエスさまを試すことに使いました。

このことをどの観点から見るかによって解釈が違うと思いますが、私は、神の掟に重さと軽さをつけること自体が、本質とは離れていると思います。神さまの御心を知るために、そして、その御旨を私たちの生活の中で表すために、私たちは神さまの言葉を研究しています。もし自分の知識を自慢するために、または、人を試すために神さまの言葉を研究するなら、その研究は、正しいとは言えないでしょう。しかし、ファリサイ派の人々は、この正しくないこと、非本質的なことに夢中になっていました。イエスさまは彼らにこのように言われます。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いをつくして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが重要な第一の掟である(37〜38節)。」この言葉は、イスラエル人なら、誰でも知っている言葉でした。「シェマー・イスラエル」、「聞け、イスラエルよ」で始まる申命記の言葉です。私たちキリスト教で言うと、使徒信条のような言葉です。しかし、イエスさまは誰でも覚えているこの言葉が、第一の掟だと言われます。

一般的に、人々は、最も重要なものであれば、特別だろうと思います。
黄金やダイヤモンドのように、誰にでも与えられるものではないと思います。創世記でアダムが蛇に誘惑されたのも、善悪の知識の木が特別に見えたからでしょう。ルターの時代に免罪符がそれほど売れられたことも免罪符が特別なものだったからです。しかし、本当の特別なものは、普遍的なことの中にありました。ユダヤ人たちが毎日唱えていた「神を愛すること」。これよりも重要であり、本質的な掟はなかったのです。そして、イエスさまはそれと同等の掟として隣人への愛について言われます。39〜40節の御言葉です。
「第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」

イエスさまは、最も重要な掟として、神への愛と隣人への愛、つまり愛することを言われました。
重要な掟を知ることが大切なことではありません。掟が日常生活の中で行われなければ、いくら重要な掟だといっても無駄になるのです。私は、なぜイエスさまがシェマー・イスラエルの言葉の後に、隣人への愛を付けて語られたのか、なぜそれを神の愛と同等だと言われたのかを考えてみました。神さまの言葉を研究していると言っていますが、神さまの言葉が生活の中で表されないファリサイ派の人々の姿を指摘したのはないでしょうか。今日の福音書の次の言葉では、律法学者やファリサイ派の人々のことを非難なさるイエスさまの言葉が書かれています。神さまを愛するなら、それで神さまの言葉を研究するなら、それは隣人への愛として表さなければなりません。神さまの掟は、隣人への配慮と愛に満ちているからです。そしてこれが、私たちが守らなければならない信仰の本質だと思います。

今日の福音書の41節の以下は、キリストとダビデの子に関連している問答です。
ところが、この問答は、イエスさまから始まったことです。ほとんどの福音書での議論の始めは、イエスさまではありませんでした。ファリサイ派の人々、又は、サドカイ派の人々が議論をかけてきて、イエスさまは、その議論に応じる方でした。しかし、41節の以下では、イエスさまが議論をかけられます。メシアがダビデの子だというファリサイ派の人々の答えに、イエスさまはダビデがメシアを主と呼んでいるのであれば、メシアはダビデの子になれないとおっしゃいます。この場面は、まるでイエスさまの反撃のように見えます。やはりイエスさまだというカタルシスが感じられることもあります。しかし、この言葉を反撃や議論の道具として見てはならないと思います。

メシアがダビデの子ではないということは、すなわち、メシアがユダヤ人だけのための王ではないということです。みんなのメシアになってくださるということです。これは当時に新たに始まった、キリスト教の重要な掟とも同じものでした。同時に、これをファリサイ派の人々は理解することができませんでした。彼らにとってのメシアは、自分たちだけのため、イスラエルという国家のためのメシアだったからです。だから、彼らのメシアはダビデの子でなければなりませんでした。神さまの言葉を研究し、どの掟が最も重要な掟なのかを研究していた彼らでしたが、神さまの掟が何を目指しているかが分からなかったのです。彼らがどの問いにも答えられなかったのは、彼らの考えが本質的なものではなかったからです。

私たちが信仰の人として、いつも考えていなければならないのは、私たちの信仰が本質的なことを目指しているのか、いないかということです。教会では、多くのことを行っています。バザーもしており、パーティーも開いていて、聖書の勉強会もして、奉仕と交わりもあります。このようなものを通して、教会はこの世と接触をして、人々を教会の中に招きます。そして、彼らにキリストの教えを伝えて、信仰の場に招きます。ですから、私たちは、いつも私たち自らの信仰を振り返らなければなりません。私たちの信仰が偏狭になっているのではないか、非本質的なものに夢中になっているのではないか、チェックしなければなりません。そして、神さまの掟が、私たちの生活で現れるように努力しなければなりません。私たちを通して、神さまの福音が世の中に伝えられるからです。ルターの宗教改革のモットーは、信仰のみ、恵みのみ、言葉のみでした。この改革の精神が私たち教会と共にありますように。私たちの信仰生活に神さまが恵みを与えてくださいますように、主の御名によって祈ります。アーメン。

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E-mail:ljwman94@naver.com(イゾンウ師)

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